レコード会社オーディション-1

幸福を売る男

芦野 宏

3、音楽学校と卒業後

レコード会社オーディション-1

「雨に咲く花」

詞 高橋掬太郎
曲 池田不二男

およばぬことと 諦めました
だけど恋しい あの人よ
儘になるなら いま一度
ひと目だけでも 逢いたいの

今日まで何度かリバイバルされ、歌われている古い流行歌である。声楽家の開種子さんが歌ってヒットした曲だった。
私は卒業演奏会を終わってから、いっさいクラシックから離れて世界のポピュラーをめざしていた。しかし、レコード会社のオーディションを受けるのに、一曲は日本の歌ということになると、この歌しか歌えないと思った。
じつは、私がアメリカ軍の将校クラブで歌えるようになったきっかけを作ったのは、ウエスタン・ランプラーズでの飛び入り出演からであった。ところが、そこでピアノを弾いていた女性が淡谷とし子さんといって、有名な淡谷のり子さんの実妹であった。楽屋でお話ししている
うちに、ぜひ姉のところへいらっしやい。姉もクラシック出身だし、きっとレコード会社を紹介してくれると思う、というのである。
当時、淡谷さんといえば多忙なスター歌手であったから、妹さんを通してやっとコンタクトをとっていただいた。昭和二十七年(一九五二) の春、陽気のよい日だった。洗足池の駅から歩いて程近いところに立派な門構えの邸宅があり、門標に 「淡谷」と書いてあった。玄関にお手伝いの若い女性が現れ、応接間に通されたが、なかなかお金いするこ.とができず、一時間ほど待たされたろうか。
とし子さんが現れて、姉は今お風呂に入っています。もう少し待ってね、といって当時では
珍しく贅沢な、菜の甘納豆を出してくださった。戦後、世の中の窮状がまだおさまっていない時代だったから、淡谷さんの生活ぶりはなにもかもとても贅沢に見えた。
さらに一時間ほど待たされたろうか。隣の襖(ふすま)があいて座敷に通されると、淡谷のり子さんが和服で現れたのである。白いきれいな肌がピカピカ光っていたことを覚えている。口紅は深紅でー○本の指をそろえて畳に手をつき、ひどくていねいなお辞儀をされてびっくりした。白い指の一本一本に唇と同じ深紅のマニキュアが施されていたのが目に焼きつくほど強烈だった。
私は動転して口もきけず、ただただ深く頭せ下げて自分の名前を告げるのがやっとだった。